人生回顧録 ~幼少期編~【初めてお話しします。私はススキノで「お嬢」と呼ばれていたエンペラーの娘〜】


前回の投稿でもお伝えしましたが、



新庄監督の本を読んで自分の中で浄化が働いたのか、

今まで自分のマインドが何にぐるぐる鎖で巻きつけられていたのか、

やっと、やっと分ってきました。



実は先日、自分の幼少期からの人生を、

初めてあるSNSに公開しました。



私の人生を本にしたら?とか、

みんなに公開してみたら?と言われたことはあるのですが、

いろいろなことがあり過ぎてまとめられなかったのを、

新庄監督の本を読んで少しだけでも公開してみようかな

と思えました。



「きっと、たかみさんの話で心が動く人がいるよ…」

というアドバイスを信じて。



かなりの長編です。

でもこれは幼少期のほんの一部。



一回の投稿ではおさまらないので、

分割して投稿していきたいと思います。



もしかしたら、

大したことないのに長文で大袈裟だと思われるかな…

という不安もあります。



そして、中には衝撃なところもあると思います。

そこはごめんなさい。

公開してどうなの?とても怖かったけど、



でも公開したら、

皆さんそれぞれが何かを感じてくださったようで、



誰にも伝えてこなかった私の過去を

ここでもオープンにしてみようと思いました。



この写真は私が3歳の時。

当時の私は札幌で生粋のお嬢様だったと思います。

なぜなら、私は当時「札幌の顔」と言われ、

全国に名が知れていたススキノのビッグキャバレー

「エンペラー」というお店の支配人の娘だったからです。




最盛期の「エンペラー」は、

ホステスさんが500人、芸能人も次から次と営業にくる、

札幌や北海道内でも知らない人はいないマンモスキャバレーだったと聞いています。




父は私の生まれ故郷の盛岡では、

赤字を再生する「経理の神様」と言われていたようで、

その腕を買われ、オープン間もなくの「エンペラー」に

支配人として呼ばれたようです。




エンペラーの支配人になるということは、

500人のホステスさんの管理と、

ススキノを取り仕切っているその手の方々とのつながりを保つなど、

相当な力量でないとできなかったのではないかと聞かされました。


(エンペラーの支配人はススキノで有名な八柳さんという方が大変有名ですが父はその前にしていたと思われます。

父は、私を失うことで仕事も失ったようです。)




当時の私は、ススキノで「お嬢」と呼ばれて、

青木のおじちゃんと言われる方

(エンペラーの経営者の青木工業さんと思われますが)

に可愛がっていただいたと母から聞いています。




写真のコートは当時の金額で3万円

(今で15万円くらいでしょうか)。

毛皮のコートと本革のブーツ、

可愛い服を着てお人形のようでいること、

それが当時の私でした。




でも、そんな華のような生活が逆転します。

母が私を連れて札幌を離れたからです。

ここから私は母の世界観の中で生きなければならなくなりました。






母は身一つで出たため、

私は当時横浜にいた叔母の元に預けられましたが、

自分が受け入れられていないことを幼心に感じ、

人の目を気にして遠慮したり気を遣うようになったのは

おそらくその時からかもしれません。




どれくらい月日がたったか分かりませんが、

母が迎えに来て盛岡に戻りましたが、

家具なんてなにもない生活。

家具といったら一つの段ボール。

それがテーブルでした。




母が夜働いていたので、

夜はどこかに預けられました。

私は母が迎えにくるのを

寝ないでずっと待っていた記憶がまだあります。




5歳くらいまでは、子供のお友達はいませんでした。

私の周りには夜の世界で働く人たちばかり。

だから、同い年くらいの子とどうやって話すのか

分かりませんでした。




ある日、知らない男の人と出会い、

いつの間にかその男の人の家に住むようになりました。

その男の人が、私の育ての父です。

(父はとてもいい人です)




幼稚園の年長で

初めて幼稚園という子供のいる場所に行きましたが、

お友達はできませんでした。

どう話してどう遊んだらいいのかわからず、

仲間に入れませんでした。




でも、小さな頃から心の繊細さは表れていたようで、

霜柱を踏む子達がいたら、

「かわいそうだからやめて!」と泣いて止めたり、

たい焼きのように生き物の形をしたものが食べられず

抱きしめていたり、ダルマの形をした煎餅を壁に飾ったり…。




「こんな繊細な子、この先この世を生きられるか心配です」

と幼稚園の先生が心配されていたと母から聞きました。




繊細な子供でしたが、社会性はないので、

一人二人、近所にお友達ができましたが、

わがままにふるまっていたり、

しつけがなっていなかったのか、

近所のおばさん達から白い目で見られていたのは

なんとなく感じていました。




私が育ったところは、

田舎で一軒一軒家庭がしっかりしているお宅ばかりだったので、

独身男性のところに転がり込んだ夜の商売をしている母子のことは何かしら噂がたっていたのかもしれません。




母から聞かされたのは、

「みんなあんたのことを、将来ろくな大人にならないって言ってるから、ちゃんと生きなさいよ」という言葉。




今の自分なら、小さな子供、

しかも繊細なハートを持った子にいうセリフだろうかと、

母の言葉に疑問を持ちますが、

小さな私はそれをまともに受け止め、

自分に言い聞かせて生きるようになりました。




「自分はちゃんとした子じゃない」

「みんな私を嫌ってる」

「だからちゃんとしないといけないんだ」




そして、「どこに行っても自分はよそもの」。




この意識が今も続く私のブロックの一つかもしれません。








母は夜の仕事を続けていたので、

父が深夜に迎えに行っていました。

私は眠りが浅い子だったので、

夜中起きて家(古い長屋です)に誰もいないとなると、

怖くてお隣の家にかけこんだり、

父のきょうだいに電話をしたりしてしまいました。




母は激怒し、ある嵐の夜には、

私を夜中にトイレに何時間も閉じ込めました。

古い家なのでボットントイレですし、

田舎なので、窓から見えるものはうっそうとした葉っぱ。

それが強風で葉っぱがざわざわ音を立てます。

私は怖くて「もうしないから助けて」と泣いて訴えましたが、

出してもらえませんでした。

そのお仕置きは何回か続きました。

私が5、6歳の時の話です。




私は今でも自分のすることが正しいかいつも不安になります。

それは、この時の恐怖から始まったかもしれません。


 


父も母も若かったので仲間と遊ぶことも多く、

その中に混じっていることはとても苦痛でした。

なぜなら、

私は大人のドロドロした世界も理解できてしまう

利発な子だったからです。




父のお友達で私に優しくしてくれるお兄さんがいました。

ある日、そのお兄さんの家で寝入ってしまい、

私一人でお泊りになりました。

その時に、性的いたずらをされました。

その時は怖くて何が起きているか分からず、

眠ったふりをして体を固くしていました。

誰かに言うのも恥ずかしいような気がして、

ずっと誰にも言えないでいましたが、

大人になって状況が理解できた時、

母に思い切って伝えてみましたが、

「え?そうなの?」で終わりました。




だから私は男性が苦手です。

自分をジロジロ見たり、自分に興味を持たれたり、

近づいてくる人が苦手です。




母はよく言いました。

あなたは誰より不幸に生まれてきたけど、

見た目はよく生まれてきたよね。




そう教えてこられました。

それが自分の武器なんだと思うようになりました。


 


ほんとにそう…?今の私は思います。

私は自分の外見を言われるのがすごく嫌です。

(だからSNSで自分の写真を載せることにも

実は抵抗があります)




私が欲しかったのは見た目ではなく、普通の家庭。

自分が認めてもらえる普通の環境です。

Just the way you are.

そのまんまの君でいいよ。

でも、この世で私を肯定してくれる人はいませんでした。




外側でなく内側の幸せがほしかった。




ちょっとオシャレをすると、

「あんたがオシャレしたって人が見るのなんて一瞬なんだから金をかけるんじゃない。」

友達とちょっと遊びに行こうとすると、

「家の手伝いしたの?遊びに金なんて使って」

自分で働くようになっても言われ続けました。




こうして、自分のすることがどんどん自信がなくなりました。







母は、母なりに一生懸命育ててくれたと思います。

これらは悲しいけど母にとっては愛情です。

私は何かが違う!とたくさん反抗しました。

母に分かってほしくて。

何が分かってほしかったのか、

当時は分からず反抗してましたが、

私は母に優しくしてほしかったのだと。

不安や恐怖や辛いことを受け止めてほしかったのだと、

今は分かります。




だから、ずっと母を恨んでました。

でも、大人になるにつれ、

母も母の人生の犠牲者なのだと

受け止められるようになりました。




母の育った環境は、戦後生まれなのに、

火垂るの墓のような環境で、

7人ほどいたきょうだいは餓死や病気で亡くなり、

残ったのは母と叔母だけ。

母は、亡くなったきょうだいが土葬されるのを

木登りして眺めていたと

あっけらかんと私に話すような人でした。




そして、母が中学の時に、

母の母(私の祖母)が電車に飛び込み自死します。

そのバラバラになった肉体を母が拾い、

リヤカーで運んで土に埋めたというのも、

武勇伝のように何度も聞かされました。




母は中学には孤児になり、

村の人も親戚も誰も助けてくれなかったと。

だから人を信用するな、誰にも頼るなと

私は言い聞かせられました。




母の話すことは、

私にとっては芥川龍之介の蜘蛛の糸のような世界。

妬み、恨み、人を踏み潰す。

でもそうしないと生きられない貧しい世界。




そんな世界観が私の世界でした。

自分の本来の魂と全く次元が違う世界、

波長と波動が全く違う世界を自分は生きなければならなかった。

これが私の不幸です。




その世界が一つ一つ拭われたのは、

社会に出て、ビッグカンパニーに就職し、

よき上司に出会えたことで、

私はやっと世間一般の常識を教えてもらいました。




社会が私を育ててくれたと思っています。








そして、私にはもう一つのトラウマがあります。




札幌から離れて叔母の元に預けられた時、

私は泣きながら母の乗るタクシーを追いかけたそうです。

でも私にはその記憶が全くありません。

ところどころ3歳の記憶はあるのに、

そんな悲しい思い出が全く記憶にない。

きっと、あまりの悲しさと辛さに記憶で

蓋をしてしまったのではないかと、

これはつい昨年気づいたことです。




私がいつも自分が孤独に感じてしまうこと、

そして、Kaiさん(亡くなったパートナー)に

「どこにも行かないで。私を一人にしないで。」

といつも訴えていたのは、そのせいなのかと…。

それをKaiさんに話したことがあります。




「Kaiさん、私は母にしてもらいたかったことをKaiさんに求めてしまうんだと思う。だからKaiさんにわがままをたくさん言っちゃうんだと思う…。」




Kaiさんはその時、ベッドに横になっていましたが、

私が話し終えると、「Kii、おいで」と言って

腕を広げて私を抱きしめてくれました。




私はKaiさんに包まれて幸せでした。

Kaiさんのおかげで子供時代に補えなかったことを

補ってもらえました。




Kaiさんは500人も職員がいる経営者なのに、

私が外で仕事があると、

朝5時に起きてお弁当を作ってくれました。



私は中学から毎日自分でお弁当を作っていたのですが、

それを知ったKaiさんは、




「今だったらKiiの母さんもKiiのために弁当を作りたいって思うんじゃないか。だから俺が代わりに作ってやる。」




と言って、私に仕事があるときはお弁当を作ってくれました。



母も言っていましたが、

この地球上であなたのために何かをしてくれたのは、

Kaiさんだけ。

私も、〇〇さん(元夫)もそこまであなたにしたことなかった。

と、Kaiさんが亡くなった時、母は言ってくれました。




そのKaiさんが亡くなった時、

私はこの世に放り出された思いでした。

なんで、自分を唯一包んでくれる人を天は奪うの…?




私はどんなにいやなことされても

嫌いな人や、許せない人はこの世にいません。

もし誰かをあげるとしたら、それは自分です。




自分を愛することってどういうことをいうのでしょう。




感覚が麻痺してしまっているのか、

自分を愛するということが

この年になっても正直分かりません。




自分の感情を正直に表に出すこと、

人にものを頼むことがいけないことだと思う感覚、

そして、



「自分がどこに行ってもよそもの。自分は受け入れられていない」



という小さな頃からの意識が、

人との間に壁を作ってしまいます。




私に優しく声をかけてくれてる人がいても、



「実は心の中では私を嫌っていて社交辞令で言っているのだろう」



幼少期の傷が人との距離を置いてしまいます。




それでも、なんとかここまできたのは、悲しかったけど、



「この子はろくな人間にならない」



と小さな頃言われたことが悔しくて、



「絶対そうならない!」

「まともな人間になる」



という反骨精神で、途中脱線しながらも

修正しながらここまで来たのだと思っています。




子供たちを手放し(ガチンコ調停で元夫に敗北)、

Kaiさんが亡くなり、自分の人生はなんなんだ?

と生きるのが怖くなりましたが、

新庄監督の本「わいたこら」を読んで、

自分の中に眠る反骨精神が

少しずつ呼び覚まされている感覚があります。






母は私をほめることはありませんでしたが、

唯一言ってくれたこと。




「あなたはどんな時も不死鳥のように立ち上がる」




私のサロンにかつて飾ってあった不死鳥の絵は、

そんな私にKaiさんが買ってくれた絵です。

不死鳥のように何度も立ち上がることが、

私にとっては魂磨きの「美生活」。




そうそう、私は中学の時に相当ぐれたことがあります。

今度家出したら、頭丸刈りにしなさいよ

と母に言われたのですが、

また家出したので、母からハサミを渡されました。




私はやると決めたらやるので、思い切って髪をザクザク切って坊主になりました。

その後髪が戻るまで不登校になりましたが、

学年が変わり、新しい担任となり受け入れてくれたのは、

今も他のSNSで繋がっている中学2年の担任の先生です。




先生が、明るく堂々と挨拶して

私に握手を差し出してくれたこと、

忘れることのない思い出です😌

先生がこの世で初めて私を受け入れてくれた人。

先生の応援が嬉しくてだから私は勉強をとても頑張りました😊

(先生、ありがとうございます!)




Kaiさんが生前言ってくれたことがあります。

「Kiiのすごいところは、Kiiを見ててもKiiの人生の裏側が全く見えないところだ。だから俺はKiiを守ろうと思ったんだ。」




「Kiiは俺が選んだんだぞ、だから自信を持て。」




まだまだ涙する毎日ですが、

今、このタイミングで息子の病院の看護師さんから

新庄監督の本を借りられたことも、

必然の流れのように思います。




新庄監督が教えてくれことは、

「自分は幸運でいろんな力を持っているけど、でもできないことがある、それは文字を理解するのが苦手。だから自分ができないことじゃなくて、自分ができることに集中してきた」ということ。




私は

「ろくな人間」になりたくない、人から非難されるのが怖い。

だからパーフェクトでいなきゃ…と、

心の中に母の亡霊がずっといました。




でも、

人からどう見られてもいいからもう自由でいたいと、

新庄監督の本を読んで思いました。

だって、似た価値観、同じような運や力を持っているのに、

自己肯定感や自己効力感が違うだけで、こんなに人生が違う。




あと、新庄監督と似ているところはもう一つ。

ぬるい環境は自分には合わないということ。

追い込まれた方が自分は強いと言っていたこと。

私もかつてはそうでした。

その方がボルテージが上がるんです。





その忘れていた感覚を、

今、この追い込まれた環境で自分がどこまでできるか、

自分の復活劇をまた演じてみようと思えたのも本のおかげです。





とても長いお話でしたが、これは幼少期のほんの一部。

本にしたら一冊ではまとめられないボリュームの自分の人生。




これを機に公開はしなくても、

自分の人生の記録をまとめようかな…なんて思っています。





長いお話読んでくださった方、ありがとうございました。


私の人生がどこかの誰かに

自分とつながる何かを感じていただけたら幸いです。










《自分の活かし方、自分の運命、自分がどんな人間かお伝えいたします。》


自分らしく生きる…の「自分らしい」はどんな自分ですか?具体的に自分を説明できますか?

自分の性質や傾向を知り、自分の活かし方が、あなたご自身で気づけるようお導きいたします。


①パーソナル診断カウンセリングセッション

~あなただけの取扱説明書をお作りいたします~


世界最古の伝統医学「アーユルヴェーダ」と古代の叡智の一つ「数秘術」により、

あなた様の心と身体の「性質」と「傾向」、「注意点」をお伝えいたします。

今あなた様に必要な天啓メッセージもお伝えいたします。


②数秘&カラー®セッション

~あなた様の「自己肯定感」と「自己効力感」を高めます~


ご自身の持つ数字のエネルギーを用いて、なりたい自分にアファメーション(言語化)

して潜在意識を書き換えます。

「自分」という人間を自分で言語化することで、自分を肯定し、なりたい自分にどんどん変化していけます。

自分と向き合うサポートセッション 札幌カウンセリングサロン スワンレムリア/Swanlemuria

【お悩み相談・占い・スピリチュアルカウンセリングサロン】 解決しない問題はありません。 どんなお悩みも、何が悩みか分からない方も、 なんでもご相談ください。 心の奥のシコリを探り出し、確実に解決につなげます。 人生の歪みを整え、未来の流れをクリアに導きます。 占い|神智学|アカシックレコード|ヨガ哲学|アーユルヴェーダ|天啓|オラクルカード|数秘術|占星術|悩み相談|人生を変える|美生活

0コメント

  • 1000 / 1000